野口医院
2020-1-31

1月のレコードギャラリー(クリフォード・ブラウン)




 今月は、不世出の天才トランペッターのクリフォード・ブラウン(Clifford Brown、1930年10月30日 - 1956年6月26日)です。ハード・バップ期初期のプレイヤーであり、ドラマーのマックス・ローチとのバンド活動は評価され、「ブラウニー」の愛称で親しまれている。その豊かな音色からファッツ・ナバロの再来とも呼ばれた。自動車事故の巻き添えにより25歳で急逝。
 父が持っていたトランペットに興味を示し、12歳の頃から吹き始める。1948年、デラウェア州立大数学専攻入学、1949年、メリーランド州立大音楽科専攻転校。学生バンドなどで演奏活動をしていた頃、ディジー・ガレスピーにより本格的にジャズ・ミュージシャンを目指すようなるわけですが、その後チャーリー・パーカーと共演。チャーリーはクリフォードの演奏に感銘を受け、アート・ブレイキーに彼を推薦。1953年、タッド・ダメロン楽団に参加。同年、J・J・ジョンソンと共演。同年、アート・ブレイキーのサポートを得て、初のリーダー・セッションを行う。同年、ライオネル・ハンプトン楽団のヨーロッパ・ツアーに参加。フランス「Vogue盤」にアンリー・ルノーのプロデュースにより録音しています。ワン・フォーンでの演奏も聴けます。
 1954年2月21日、ニューヨークのジャズ・クラブ「バードランド」で、アート・ブレイキーを中心に行われた歴史的セッションに参加。この模様は『バードランドの夜』(vol 1,2)というタイトルでレコード化されました。同年、マックス・ローチとともにクリフォード・ブラウン=マックス・ローチ・クインテット結成。54年にはブラウン=ローチ・コンサートの録音を残しています。1955年11月には、ソニー・ロリンズがメンバーとして加入。
 1956年6月26日、リッチー・パウエル(バド・パウエルの弟)の妻、ナンシーの運転する車にリッチーと共に便乗してフィラデルフィアからシカゴに向かう途中、交通事故死。25歳。事故当夜は雨が降っており、ナンシーを含めて3人全員がこの事故で亡くなった。
 サックス奏者のベニー・ゴルソンは、クリフォードの死に激しいショックを受け、1957年、クリフォードを追悼してバラード「アイ・リメンバー・クリフォード」(I Remember Clifford)を作曲した。この曲はジョン・ヘンドリックスによって歌詞を与えられ、ジャズ・スタンダードとなりました。EmArcy、Blue Note などに残されたています。
 『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』(EmArcy) 1955年は良く聴きます。バラードがメインでアドリブ・パートもほとんどないという、即興してなんぼのジャズマンにとっては厳しいシチュエーションをものともせず、ブラウンは持ち前の豊かなトーンとメロディック・センスを存分に発揮して音楽を歌い上げています。『スタディ・イン・ブラウン』(EmArcy) 『ブラウン=ローチ・イン・コンサート』(Gene NormanPresents) 1954年、歌伴では、『サラ・ヴォーン』『ヘレン・メリル』『ダイナ・ワシントン』特にヘレン・メリルは有名ですね。
 『ザ・ビギニング・アンド・ジ・エンド』 - 初録音(1952年)と事故死の数時間前に録音された演奏のカップリング → Walkin'、A Night In Tunisia、Donna Leeの3曲は、事故死(1956年6月25日)直前の録音と言う事になっていますが、もし彼が事故に遭うことなく、第一線で活躍していたら、ジャズ・トランペット界はどう変わっていたか、彼の演奏をきいてまず驚かされるのは、どんな局面にあっても曖昧なところがまったくないその明快さです。ゆったりとしたバラードや快適なミディアム・テンポはいうに及ばず、超高速ナンバーであっても彼の奏でるアドリブには微塵の乱れもなく、歌心に満ちています。
しかし突然悲劇がやってきます。1956年6月26日の深夜、ブラウンを乗せて仕事先に向かっていた車が折からの大雨でスリップし、ガードレールを突き破って75フィート下に転落。もし彼がもっと生きていたらどれほどの達成を成していただろうと想像せずにはいられない、あまりにも、あまりにも早すぎる天才の死でした。
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