野口医院
2019-7-18

7月のレコードギャラリー( キャノンボール・アダレイ)




 今月は、ファンキー・アルトサックスのキャノンボール・アダレイです。
 1928年フロリダ州タンパに生まれ。1955年にNYに移り住み、ジャズ・ミュージシャンの間で、その実力が注目される存在となって行きました。当時NYのジャズクラブ「カフェ・ボヘミア」でのオスカー・ペティフォード(b)のバンドに飛び入りで「I’ll remember April」を素晴らしい大きく魅力的なトーンで他を圧倒し、聴取の喝采を浴び、他の共演者も完全にダウンさせたとの伝説があります。その頃エマーシーなどにも録音していましたが、その後SAVOYレコードのプロデューサーであったオジー・カデナが彼をすぐさまレコーディング開始。その胸を躍らせるようなサックス演奏でニューヨークのジャズ界は衝撃を受けました。
 1957年にマイルス・ディビスセクステットに参加。マイルスは彼の才能に感嘆。マイルスはアダレイの憧れの存在の一人であり、そんな彼に認められたアダレイの未来は明るかったのですが、アルト・サックス奏者でビバップの巨匠チャーリー・パーカーが34歳で亡くなり、ジャズ界には大きな穴が空き、多くの人がアダレイがその穴を埋めるのではないかと期待されました。それは大きな責任であり、タンパ出身の太った元教師だったアダレイはその期待の重さに最初は苦闘し、エマーシー及びマーキュリー・レコードから発売した初期のLPでは彼の才能をフルに発揮は出来ないかったようです。しかしマイルス・デイヴィスはアダレイに助け船を出し、1958年にブルーノートから発売したアダレイのリーダー作『Somethin’ Else』に珍しくサイドマンとして参加、そして自身のバンドをクインテット(5人編成)からセクステット(6人編成)へと拡大するにあたりアダレイを起用しました。またマイルスのアルバム「Milestones」(1958, コロンビア)と「Kind of Blue」(1959, コロンビア)に参加。ある意味マイルスの実質リーダー作として録音された「Somethn Eles」(1958,ブルーノート)ジャズの名盤であり、収録曲ではシャンソンの曲"Autumn Leaves”(枯葉)がヒットし、ジャズのスタンダード化に成功しました。
キャノンボール・アダレイ・クインテットは、アダレイのアルトサックスに弟のナット・アダレイのコルネットがフィーチュアされています。最初のクインテット(エマーシー時代)は売り上げを出せなかったようです。しかしマイルス・グループを離れた後、弟とグループを組み直し(リバーサイド~ キャピトル時代)、特にリバーサイドでは、バンドリーダー、プロデューサー、タレントスカウトとして才能を遺憾なく発揮、成功を収めるようになりました。「IN SAN FRANCISCO」(1959,リバーサイドでは、数ヶ月で5万枚をセールスしました。ピアニストにボビー・ティモンズのオリジナル曲「This Here」はシングル盤となりファンキー・ジャズの代表作として親しまれています。またビル・エバンスとの共演「Know What I Mean?」(1961,リバーサイド)での演奏は個性の違う者同士で内容は興味深いです。その後グループは、1960年代後半にかけてクロスオーヴァーな活躍をし成功を収めています。1962年には、セルジオ・メンデスと共演しボサノバを取り入れた「Cannonball's Bossa Nova」(キャピトル)がヒット。
1963年7月には来日公演を行い、東京公演の模様はライブ盤「Nippon Soul」(リバーサイド)ジャケットが面白いです。
1966年には名盤として名高い「Mercy,Mercy,Mercy!LiveatThe Club」(キャピトル)を発表。ジョーザビィヌル作曲のタイトル曲はシングルカットされています。この頃のアダレイは、ソプラノ・サックスをダブリングさせた、「The Price You Got to Pay to Be Free」(1970, キャピトル)のようなアルバムも発表しています。
大食癖に起因する糖尿病と扁桃痛に若い頃から悩まされていたようですが、1975年に脳梗塞で亡くなっています。彼のバンドのメンバーだったジョー・ザヴィヌルが結成したウェザー・リポートのアルバム『ブラック・マーケット』(1976, コロンビア)に、アダレイに捧げた曲"Cannon Ball"が録音されています。デイヴィット・サンボーン曰く、「チャーリー・パーカーは別格として、アルト奏者としてはキャノンボ ールが最高峰である。」と語っています。
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