野口医院
2018-8-21

8月のレコードギャラリー(ジョージ・ベンソン)




今月は、ギターリストであり、ボーカルリストでもあるジョージ・ベンソンです。

 彼のキャリアは長く幼少より既にプロを目指していたとされ、60年代にジャズのアーティストたちがブルースやゴスペル、R&B等に影響された泥臭い音楽を演奏するようになり、その代表格がグラント・グリーン、ジミー・スミス、シャリ—・スコット、ジャック・マクダフ、ビッグ・ジョン・パットンなど、ソウルジャズと呼ばれていました。
 1963年、オルガンのジャク・マクダフのバンドに加入。初期のベンソンは、泥臭いこのソウル・ジャズを演奏していました。1964年、マクダフのサポートを得て、『The New Boss Guitar』で、このでバンド・リーダーとしてデビュー。1968年には、マイルスの初のエレクトリック作品『マイルス・イン・ザ・スカイ』にレコーディングに参加しています。
 彼を最初に聴いたのは、ハンク・モブレー『REACH OUT!』(BN4288)に当時若手としてウェィン・ショタ-と共に参加、特にR&Bの楽曲が印象に残っていました。良く言われるフュージョンの直系の先祖と言えば、ジャズギターの巨人として知られるウェス・モンゴメリーが66年にリリースした『カリフォルニア・ドリーミング』。このアルバムでは白人ポップスグループのママス&パパスのヒット曲をジャズにアレンジして、このアルバム以降ウェスはビートルズナンバーやトラッドな楽曲なども手がけ商業的にも成功したのですが、1968年に45歳の若さで急死しました。
 そんなウェスの後を継いだのが、ジョージ・ベンソンです。若い頃のベンソンのギターワークはウェスにそっくりですし、なお繊細に思えます。デビュー当時からジャズ界最高の技術を持っていたとされていました。ギターの腕前だけでなく、彼にはもうひとつの強力なヴォーカルと言う武器を持っていました。ウェスの路線を継承して行く事はジョージ・ベンソンの戦略でもあったのでしょうか。
> 他のジャズギタリストが誰も成し遂げられなかった二刀流で、彼は勝負することに決めたのでしょう。フュージョンが誕生する前の70年、彼がリリースしたビートルズの『アビー・ロード』のカバーアルバム『The Other Side of Abbey Road』では、ヴォーカルとギターの両方を器用に披露し、新しいジャズのかたちを見せています。プロデューサーは、この後フュージョンの代表的レーベルとなる CTIを創ったクリード・テイラー。彼は前述したウェスの『カリフォルニア・ドリーミング』のプロデューサーでもあり、ウェスが録音する予定だったアルバムを、急死したウェスの代役としてベンソンを起用するなど、ただ、『The Other Side of Abbey Road』は大袈裟なストリングスアレンジや軽過ぎるサウンドプロデュースが目立ち、イージーリスニング以上でも以下でもない作品であることも確かです。
 転機が訪れたのは75年。ベン・シドラン、クルセイダーズ、ポインター・シスターズなど、洗練されたAOR作品をいくつも手がけてきた優れたプロデューサーのトミー・リピューマとの出会いであったと思います。リピューマはワーナーブラザーズにプロデューサーとして呼ばれ、同じくワーナーに移籍したばかりのベンソンと運命的な出会いを果たす事となり、そしてベンソンの新作を手がけることになりました。
 トミー・リピューマはベンソンのニューアルバムを制作する際、ストリングスアレンジにクラウス・オーガーマンを、ミキシングのエンジニアにはアル・シュミットを起用するなど、当時の最高の布陣でレコーディングに臨んでいます。そして出来上がったのが『ブリージン』で、このアルバムはジャズでもなくロックでもなくソウルでもなくファンクでもない、それらの音楽がまさに融合したようなまったく新しい音楽でした。当時はどのジャンルにも当てはまらず、“クロスオーバー”と呼ばれていました。だが、ベンソンのギターはテクニック面ではすでに完成していただけに、これまでとそう変わることはないですが、ハーヴィー・メイソン(ds)初めとするリズム隊によるグルーブ感にあふれるタイトなリズムセクションをバックにしているだけに、ギターが気持ち良く歌っているように感じます。 1曲目の「ブリージン」はソウルシンガーでギタリストのボビー・ウーマックが書いたインスト曲。アルバムを印象付けるような決定的なナンバーです。ゆったりとしたテンポとゴージャスなストリングスが都会的です。YouTubeで当時のこの曲のライヴ演奏をベースのスタンリー・バンクスがベースを弾きながら足でタンバリンを軽々と演奏していたのには驚きました。 2曲目のレオン・ラッセル作「マスカレード」は、ベンソンの二刀流が世界中に知れ渡ったナンバー。途中のスキャットに合わせたギターソロは文句なしの職人技を聴かせています。他の曲も秀作揃いで、個人的には後半の3曲が良く聴きます。本作に関わった面子が才能豊かなアーティストたちだけに、後世に残る名作となったことは間違ありませんが、やはり主役はジョージ・ベンソンなわけで、彼の職人技は今後何年経とうが色褪せることはないだろうと思います。エイトビートのリズムにジャズギターを乗せるという難しいことをサラッとやってのけた彼の功績は計り知れないでしょうか。 グラミー賞にも輝いています。
 その頃、ジャズ界でも同じような転換期を迎え、スタッフ、リー・リトナー、アール・クルーらがデビュー、それらはフュージョン(当時はクロスオーバー)と呼ばれ人気を博しました。
 フュージョン音楽の大きな構成要素として、“親しみやすさ”は外せないのでは、ジャズと比べると洗練され、当時は、おしゃれな雰囲気が漂っていたのだと思えます。。
 ワーナー移籍後の2作目これもトミー・リピューマ同様のスタッフで『イン・フライト』。この作品のすばらしい1曲目の“ネイチャーボーイ”のボーカルが魅力です。1980年の『ギブ・ミー・ザ・ナイト』ではクインシー・ジョーンズを制作に迎えています。さらに『ラブ・オール・ザ・ハート・アウェイ」』1981)や『ターン・ユア・ラブ・アラウンド』(1982)をヒットさせました。ダンサブルな楽曲をシングルも発表したりしています。アルバム『20/20』(1984)等歌手として特化したアルバムも出しています。1980年代にはブラック・コンテンポラリーの歌手の一人としても認知され、より商業主義的な音楽を発売するようになります。1984年には、『NOTHING GONNA CHANGE MY LOVE』(変わらぬ想い)を発表した。その後も名プロデューサーとタッグを組み多く作品を出しています。
 1996年よりGRPレコードに所属。2006年にはコンコード・レコードのモンスター・ミュージックに移り、アル・ジャロウとの共作『Givin' It Up』を発表。2009年には音楽活動をほぼ停止していましたが、その後バックミュージシャンとして活動を停止したTOTOの豪華な主要メンバーを取り揃えて再活動。また何度となくグラミー賞も獲得しています。2011年に『ギター・マン』が発売。その中で「僕にとってはジャズでもポップスでも全てが音楽。中略…それは僕にとってはとても自然なこと、というのは世の中いい音楽と悪い音楽の2つしかないのさ。その間のものっていうのもたくさんあるけれど、最終的には良いか悪いかのどちらかに決められるものだよ。」語っています。
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