野口医院
2018-4-5

4月のレコードギャラリー(アート・ブレイキー)




 日本人には一番なじみのジャズミュージシャンの一人です。そして今年10月で生誕100週年となります。彼の特長は既に出来上がった若手ミュージシャンを売り出すきっかけを与えスターを輩出して行く能力だと思います。
 彼が物心ついた頃、1929年はあの世界大恐慌がアメリカを襲いました。以後数年間続く不況の中で、10代後半からバンドで活動しニューヨークへ進出。一説には当初はピアニストであったが、師について学んだわけでもなく、その腕前のほどはたかが知れていたとか、その後ピアノを断念しドラマーに転向。
 きっかけは、ある夜、アート・ブレイキーが演奏するクラブに、クラブのボス(マフィアとの説も)がピアニスト(エロ―ル・ガ―ナ―とか)を連れてきて弾かせたところ、アートよりも優れた演奏をしたため、ボスはアートに「おまえはタイコでも叩いてな!」と拳銃をちらつかせながら脅したということのようです。
 当初、ドラムの腕はたいしたことはなく、バンド仲間からはバカにされていたが、盟友であるトランペッターのディジー・ガレスピーからアドバイスを受け、精進を続けることにより、みるみる上達したようです。
 そして当時チャク・ウェップから「ロ―ルをやってみろ!」とドラムの奥義を学び、後年あのパーフォ―マンスとなるわけです。
 18才の時、本格的な始動開始 ビリー・エクスタインの楽団へ入り、バップの洗礼を受けたようです。1940年代後半からマイルス・デイビス、セロニアス・モンク、チャーリー・パーカーらと共演後、特にモンクからはかなり影響を受け自己の人間性を完成させるきっかけとなったと自身語っています。
 そしてブルーノートのアルフレッド・ライオンの目に止まりリーダ―アルバムを1947年に録音。1951年マイルスの「DIG」(Prestige7012)セッションに参加。初代メッセンジャーズの命名はホレス―シルバーであり、その以前にもホレス・シルバートリオ録音でハ―ド・バップの典型的なリズム隊としてアルフレッド・ライオンも満足だったようです。クリフォード・ブラウンやルー・ドナルドソンらを擁してジャズ・クラブの『バードランド』に出演して人気を博しました。
 1956年にシルバーが脱退した後、ジャズ・メッセンジャーズは不遇の時代を迎える事になります。それを打開するきっかけを作ったのが、1958年2月、当時ジャズ・メッセンジャーズにいたジャッキー・マクリーンが麻薬で逮捕され、その代役を務めたベニー・ゴルソンと出会ったことです。ここでブレイキーがゴルソンの几帳面な性格が気に入り、彼にグループの立て直しを要請。メンバーもトランペットにリー・モーガン、ピアノにボビー・ティモンズ、ベースにジミー・メリットと自分とゴルソン以外は全員入れ替え、代表曲となっている「モーニン」(ティモンズ作曲)、「ブルース・マーチ」(ゴルソン作曲)等の新たなオリジナル曲が出来て新しいレパートリーに付け加えられ、1958年10月、新メンバーでのお披露目初公演をニューヨークのタウン・ホールにて行い大成功を収め、同月30日、ブルーノートに前記の曲を含めたアルバム「モーニン」(BN/BST-4003)を収録し、同アルバムは翌月発売これが大ヒットとなりました。日本国内盤は発売されず、一部のレコード店で、わずかに米からの輸入盤LPが発売されていたものの、日本のそれに比べれば約2倍の値段がして、非常に高価だったようです。彼はブルーノートレーベルに20枚以上のアルバムを録音しています。そしてバンドが欧州公演を行った際に、1958年12月28日にフランスのパリのサンジェルマンで録音されたライブ・アルバム『サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ Art Blakey & Les Jazz Messengers Au Club St Germain』(RCA原盤)が当時の日本ビクターから発売され、また1959年公開のヌーヴェルヴァーグ映画作品『危険な関係 Les Liaisons dangereuses』『殺られる Des Femmes Disparaissent』の音楽参加を契機として、日本でもこれらの曲が知られ大ヒットし、空前のファンキー・ブームが起こりました。
 「モーニン」の大ヒット後、ゴルソンは翌年(1959年)にジャズ・メッセンジャーズを離れ、その後はテナー・サックスはハンク・モブレーらが担当したが、同年(1959年)秋に、同楽器担当にウェイン・ショーターが入り、その際、ショーターは同バンドの看板曲の1つである「チュニジアの夜」を、ドラム・ソロを中心とするアレンジに新たにリメイクし、1960年8月14日、ブルーノートにアルバム「チュニジアの夜」(BN-4049)の1曲として録音。これが、同曲のブレイキーの長いドラムソロの象徴的な曲として親しまれることとなりました。
 以後、彼はジャズ・メッセンジャーズのリーダーとして、様々なアルバムやコンサート等で活躍しています。
 彼の功績は現在のジャズ界に多大な影響を与えました。ただし、晩年の録音では腕力や感性の衰えがかなり目立ち、リズムキープもおぼつかないようになっていき、評価は賛否相半ばですが分かれます。
 親日家として知られ1961年の初来日以降、何度も日本で演奏をおこなっています。またこの頃、ジャズ・ブームをきっかけとして日本に「ジャズ喫茶」が爆発的に増え、アート・ブレイキーの存在は、日本のジャズ・ファンにとって、マイルス、コルトレーンにも匹敵するような部分があるのではと感じます。
 彼の演奏した曲の中には"Ugetsu(雨月)" On The Ginza(オン・ザ・ギンザ)"など、日本をテーマにしたものも存在します。メッセンジャーズにも'70年代以降鈴木良雄、鈴木勲等の日本人がレギュラーまたは客演で加わっているほか、かつての妻の一人も日本人であった。日本酒を大いに気に入り、千鳥足でステージに上がったこともあったという。使用するドラムも晩年は日本のPearlと契約し、亡くなるまで愛用したとの事。彼は「私は今まで世界を旅してきたが、日本ほど私の心に強い印象を残してくれた国はない。それは演奏を聴く態度は勿論、何よりも嬉しいのは、アフリカを除いて、世界中で日本だけが我々を人間として歓迎してくれたことだ。」と言っています。
 その後、亡くなる間際まで来日を繰り返し、特に夏のフェスティバルでは常連的存在でありました。彼は多くの新人を発掘し、多くの著名なミュージシャンがメッセンジャーズから巣立って行きました。50年代後半からはリー・モーガン、ボビー・ティモンズ、ウェイン・ショーター等が、60年代にはフレディ・ハバード、キース・ジャレット、チャック・マンジョーネ、シダー・ウォルトン、レジー・ワークマン等がメッセンジャーズ在籍をきっかけにスターになって行きました。
 80年代に流行した新伝承派と呼ばれる若手プレイヤーを中心とした、モダン・ジャズムーヴメントで活躍したプレイヤーの多くがメッセンジャーズの出身である。第一線で活躍しているウィントン・マルサリス、ブランフォード・マルサリス、テレンス・ブランチャード、マルグリュー・ミラー、ジェイムス・ウィリアムス、ロニー・プラキシコ、ケニー・ギャレットなどがメッセンジャーズの出身です。彼を直接見る事が出来たのはあるライブハウスのリハーサルで長女エブリン・ブレイキー(vo)を含めたメッセンジャーズでの演奏でした。演奏は柔軟で思った以上にデリカシーな対応に驚いた記憶があります。それとお客を楽しませる一流のエンターテイメントである事です。リーダ―作品も良いのですが、バディ・デフランコ(cl)との共演盤「ミスタ―・クラリネット」(Verb)やデューク・ジョ―ダン(pf)SAVOY盤のオーソドックス・なスタイルからジジ・グライス(as)「二カズ・テンポ」(SAVOY)やケニー・ド―ハム(tp)「アフロ-キューバン」(BN1535)などのパーカシィブな演奏など彼の当時の幅広い奏法には魅力的です。リ―ダ―のジャズ・メッセンジャ―ズとしては、個人的にはリー・モーガン(tp)ウェィン・ショタ―(sax)のフロント時代を良く聴きます。
 あと有名曲「モーニン」のボビー・ティモンズ(pf)ですが、早いテンポでのシングル・ト―ンによるソロ、強靭なタッチで個性的フレイズ紡ぎ出していく、ある意味ジャズ・メッセンジャーズのファンキーな雰囲気を作った功労者のように思うのですが、いずれにしても、ブレイキーは一流のエンターテイメント性で長きに渡り活動をして来たのは、自己のバンドではあくまで自由奔放なスタイルを貫き、サイドマンとしてはリーダ―の意向を実現させるために協力を惜しまないのが、いつまでも敬愛される理由だと思うのですが。
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